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さらには誰によって撮られるのか?
たぶん私は私の言葉によって、彼の写真を、彼から盗み取ろうとしている。
—ジャック・デリダ「留まれ、アテネ」—
いつも自分の言葉がどのような道筋をたどって自らを捉え、また紡ぎ出された言葉がいかにして相手に届くのかについて、繊細な高鳴りに息苦しくなる、その人。あるいはその繊細さがたたって、シニフィアンのダンスフロアで場違いなステップを踏んでしまう、ノイジーな発話者。
友人であれ、恋人であれ、見知らぬ誰かであれ、言葉の企む幻影の手練に、絶えず柔らかな傷跡を刻まれる彼らのか細い身体に、僕は心の底で、君も、、と呟く。
僕の好きな写真も、自然とそのようなものになる。僕らの眼差しに、嘲笑と哀しみの一瞥を注ぐ幾人もの写真家達。(そう、僕は彼らに眼差されることが恐ろしくて、多くの写真と出会いそびれている)その中で、ウォルフガング・ティルマンス、ライアン・マッギンレイ、この二人はいつも僕に、僕が他者をまなざす眼差しを、その印画紙の上で、加えることもなく、減じることもなく反転させ、静寂の物腰で送り返す。他者に差し向けた視線は、そのまま負債となって僕の眉尻に注ぎ返される。誰かの吃音は、僕の吃音になって、今日も喉をつまらせ、音になり損ねた言葉の死骸が、腹腔の平面に堆積する。
彼らに共通するのはいうならば、他者に接する時のひりひりするような、あの痛みのような物で、主体が 他者に向き合うその境界面に立ち現れる湿り気を帯びた光の束が、彼らの写真の輪郭を柔らかな一太刀で切り取ってゆく。
哀しみの純粋強度の様なその何か。
カメラが切り出してくる瞬間とは、カメラという第三の眼差しが、他者というヴェールに包まれた存在の向こう側から照射してくる神秘的な粒子を、主体存在の 無意識的な心のトポロジーを通じて、この現実世界に引き出してくるその裂け目に他ならない。トポロジカルな通路によって咀嚼された純粋贈与の残滓を、透明な液体の中で掬い上げる写真家の指先に、僕はいつも嫉妬する。
換喩の絶え間ないステップの合間に、僕は君に別れの口付けをする。
言葉がイマージュの誘惑を裏切る瞬間を夢見て、今日も眠ろう。
木曜ゲスト 小島和明