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レコーディングルーム
どうも。宇野です。

許可が出たのでもう一本。



今回は「5限後の音楽」ということで、写真だけでなく音楽もキーワードのようで
す。

主宰の山端先輩は常日頃から「写真」と「音楽」の関係について話していて、部室で
も何度か聞いたことがあります。



「写真」と「音楽」。ふむ。

前者は前時代的映像メディアであり、後者は歴史の長い音声メディアである。

写真は歴史的に見れば誕生はほんのつい最近であり、記録媒体、情報の伝達媒体とし
て発明された。

音楽の歴史は遡るには非常に骨の折れる作業だ。というかメディアなのかどうかの意
見も分かれるだろう。反戦だったりナショナリズムだったりに使われることは多々あ
るが、とりわけ「このために発明した」といったことはない。

形状も歴史も目的もなにもかも違うのだ。というより共通点を探すのが難しい。

先輩のいう、ひいては今回の「5限後の音楽」のコンセプトがどこにあるのか。なぜ
写真と音楽なのか。

謎は深まるばかりである。







さて話は変わって、2月に武蔵大学の校外展が行われる。こちらも宣伝しなければな
らない。

しかし締切はもうすぐなのだが作業は一向に進まない。

なぜなら作品制作が非常に億劫なのである。



私は作品制作には必ず暗室を使用する。

理由は「部室にあるから」「写真部っぽいから」「先輩として威厳を見せねばならな
いから」「そもそもデジカメ持ってないから」

どれも正解だし、本当にこれ以外の理由は見つからなかった。

だから新入部員にデジカメ使用は当然認めていたし、暗室強要もしなかった。

たまに物珍しさに暗室作業を見に来た後輩には事細かに説明し、実際に使っても見せ
た。

あの静かで真っ暗な部屋、寒くて水の流れる音だけがやたら響く、不気味に光るセー
フライト、ゆらゆらと白い印画紙から像が浮かび上がってくる瞬間。

これを体験させると皆同じように興奮する。「へえ」「ほう」との感嘆の溜息は何度
も聞いた。

けれどそれをきっかけに暗室作業を始める人はほとんどいない。

至極当然のことである。ちょっとした好奇心で暗室の異空間に入るのは確かに面白い
かもしれない。

ただ好き好んで何度も入りたくなるようなものでもない。

そもそもあの空間は写真を焼き付けるために仕方なく暗くて怖い思いをしなければな
らないのだ。

このデジタルカメラ全盛期に、誰が骨董品のようなフィルムカメラを調達しモノクロ
フィルムをわざわざ用意して、アホみたいにランニングコストのかかる暗室作業をす
るというのか。

もし春に入る新入生が暗室をやりたいと言ってきたら、事細かに手順を教えてあげよ
う。

そして最後にそっと語りかけるのだ

「今めっちゃいいデジカメ売ってんぞ」





こんなこと書いてるとあれですが

「それでも暗室を使ってプリントする俺。ドヤ!」

という気は本当に全くありません。

この際正直に言いますけど、僕は暗室作業が嫌いです。

なぜ?それは上で述べたとおりです。

反対に暗室の楽しいポイントを教えて欲しい。

ほんと最初に祖父から譲り受けたのがCanon EOS1000QDで、いわゆるフィルムの一眼
レフカメラであって、デジカメを持ってなかったから。デジカメが馬鹿みたいに高
かったから。

それだけである。

暗室作業のみの作品展を一度だけ部長時代強要しましたが、あれは自分自身に、暗室
作業の理由を問いかけていたのだと確信を持って言える。



そんなこんなでやっと冒頭の音楽の話を引用したい。

そもそも「人様に自分の作品を見せる」というのにはある共通事項がある。

それは「企画」→「制作」→「編集」である。

もう言いたいことはわかったかもしれないけれど、もう少し付き合ってほしい。

例えば音楽。

ミュージシャンなりプロデューサーなりが「ラブソング」を作る!と企画

そして作詞、作曲で全体の格子を作る。

最後にレコーディング。完成が近づいても何度も何度も同じ曲を嫌になるほど聞き、
正直リスナーにはわからん細部まで妙なこだわりを見せる。

正解の無い、終わりなき作業でもある。

CDショップに並ぶ時には、「ひょっとしたらあっちのバージョンがよかったんじゃな
いか」「もっとギターを歪ませればよかった」

など後悔も繰り返すかもしれない。

でもそんなものでしょう。

これは絵画だろうと漫画だろうと映画だろうとテレビ番組だろうと同じである。

こだわりを見せれば見せるほど深い闇につかまって、ありもしない「正解の完成品」
を探してしまう。



ここで暗室が初めて繋がってくる。

写真が「記録的」メディアである時、「報道的」メディアである時、デジタルカメラ
は申し分ない。

そこでは「撮影」することがメインであり、「決定的瞬間」を撮影することが求めら
れる。

決定的瞬間にシャッターさえ切ってしまえば、もうそこでやることはすべて終了す
る。あとは機械が撮った像に色をつけて可視化するだけである。

何も問題はない。非常に効率的でシンプルだ。

ただ、これが「美術的」(表現的)メディアであったときは話が変わってくる。

先ほどの作業には「企画」「編集」の工程がすっかり抜け落ちてしまっているのだ。

より深刻なのは「編集」である。すべてデジタル任せだ。

そしておそらくその事実に気づく人でさえ少ないだろう。



表現するために何をどう撮影しようか思案して、撮影し、自分のフィルムと睨めっこ
しながら何度も焼き直して自分の写真と嫌になるほど向き合う。

こうして初めて「人様に見せる」ステップを踏むことになるのだ。

写真は「何を撮影するか」でなくて「何を撮影して、どのように見せるか」であると
思う。

撮影して終わりでなく、それ以上のウエイトを暗室作業に置かなければならない。

いま暗室にいやいや入るのはこのために他ならない。



あんなに自分の撮影した写真に何度も向き合わされ、しまいには「これで本当にいい
のか。撮ったものが悪すぎる」と嘆きたくなる。

それは自分の実力がフィルムで如実に反映されるからだ。

たまにデジカメを借りて撮影するときがあるが、その時は自分でも「こんなに綺麗に
撮れるとは俺も腕を上げたもんだ」と思う。

しかし実態はデジタルセンサーやらなんやらが鮮やかな彩を使ってくれて演出してく
れているだけだ。

例えるなら、鼻歌で適当に作ったゲロみたいなメロディを持って小林武史に持って
いったら、ピアノやらストリングスやら桜井和寿やらが過剰演出してくれているのと
何一つ変わらない。

要は実力以上のサポートが入り、作品を見事に仕上げてくれる。逆に言えば自分の表
現、こだわりは無視される。



あいにくフィルムカメラしか持っていなかったせいで、いつの間にか綺麗に撮影する
ことと同じくらい綺麗にプリントすることを意識するようになった。

そのせいで暗室に入らなければならなくなってしまった。

私にとって暗室はレコーディングルームだ。嫌になるほど、鬱になるほど自分の作品
と向き合わなければならない。

フィルム像の揺るがない制限の中、明るさとコントラストの少ない支配範囲で自分の
フィーリングに合うようギリギリの戦いを虐げられる。

考えただけで億劫なことこの上ない。

でも撮影するだけが写真表現なんてあまりに少ない。そんなのは誰だってできる。

デジタルや他人がプリントしたものなど、撮影こそ自分だけどその作品の責任は一切
ない。

もう他人の作品である。音楽で言えばカヴァーなのだ。





「写真」と「音楽」の共通点はそこだ。

これに気づいたのは最近になってからであるが、写真部でよかったと今なら言える。

たぶん、何事もそうじゃないか。

人に何か伝えたいとき、できるだけ自分の声、言葉を使いたいのと同じ。

誰かを、何かを介さないであなたに直接伝えたい。

それは下手くそでも醜くても構わない。

なぜなら何かが挟まれることで、100%が90、80%になるのが嫌だから、怖いから。



あなたが誰かに伝えたいときに、その手段でカメラを手にされるのならば、わずかな
人差し指だけの動きだけで本当にいいのですか。



こんな感じで写真展頑張りますので、応援よろしくお願いします。







月曜日2本目 宇野
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